JIS90で追加された2つの文字をご存じだろうか。「凜」と「熙」の2文字だ 「凜」はともかく、「熙」は「煕(区点63.70)」に異体字があり、読みも同じである。何かの理由があって採用したのだろうが、あえて追加する必要は感じられない。
つまり、JISはそのときの状況に合わせて、採用する文字を適宜変更しているわけである。「凜」は「熙」は包摂されてしかるべき異体字ではないだろうか。必要があれば、包摂する基準はシフトするのである。
私が思うのは、それは「正しい」ということだ。時代に合わせて、採用する文字は変えていけばいいのだ。なぜそれがいけない。既存の文字コードとの整合性を考慮しつつ、必要な字形は追加していけばいいのではないか。
ただ、今回ミスったと思うのは、JISコード上で「例示字形」を変更するだけでなく、連動してユニコードの字形も差し替えてしまったことだろう。もちろん、そうしないと、印刷標準字形を差し替えた意味がないのはわかるが、ユニコードの字形を変えてしまったら、1つのユニコードに複数の字形を割り当てることになり、Vistaのよううな問題が起こることは予見できたに違いない。まあ、おそらくはそれを見越しても、変更せざるを得ない「事情」があったのかもしれない。
しかし、変更した字形についてはJISコードのみを変更し、新規字形はすべて新しくユニコードポイントを割り当てれば、何一つ問題にはならなかったはずである。にもかかわらず、その選択肢は廃棄されたわけである。私はその時点は、JIS 2004は
空想の産物
化したと思っていた。それが採用されることはないだろうと、思っていたのである。
一体全体、ユニコードがサロゲートペア領域を拡張して、百万字も文字を利用できるようにしたのは何のためなのか。包摂された「異体字」や既製事実化した「字形」を登録するためではないのか。諸橋大漢和や康煕辞典の文字に全部に文字コードを振りたいというような要望があるからではないのか。つまり、限りなく湧いてくる「字形」を、コンピュータ上で利用するためではないか。
ちまたでよく言う「文字が足らない」は、実は「字体」が足らないのではなく、「字形」が足らないのである。もちろん足りないといわれる字形には、不要なものも多くある。第二水準以下の字形の大半は、一生使うことはない字形である。「盜」などの人名にも使われていない字形は、削除してもなんら差し障りがない。
JISの包摂主義と同じように、ユニコードも包摂主義だとという意見もあるようだが、ユニコードは包摂主義ではない。そうではなく
ユニコードは無政府主義
である。つまり、ユニコードは字体や字形についての基準をなにも持たない規格なのである。明確な基準を持たず、言われるままにコードだけを提供する。今回の件で、ユニコードは単にJIS依存主義であることが明確になったわけである(そういう意味では、ユニコードも包摂主義であるというのは正しいが、JISは本当の意味では包摂主義ではない)。
文字をほぼ無限に追加できるユニコードに包摂主義を持ち込むのは、はっきりいって
ナンセンス
である。